青い空が、入道雲が新しい季節の始まりを告げる。空がやけに遠く見えることに軽く眩暈を覚えながらオレは欅の並木道の坂を自転車で駆け上がっていた。
今日はなにもかもが最悪な朝だ。まだ初夏だというのに朝から高い気温も、汗で身体に張り付く髪も、ちっとも役に立たない追い風も。そして何よりも。遅刻そうな時刻だという事実が。
只今時刻は8時16分。そんでもって授業開始まであと9分。ここから学校までは自転車で15分はかかる道のりだった。一秒たりとも気が抜けない。
ああもう、あの目覚まし時計。毎朝毎朝叩いただけで壊れやがって。というか、弟も弟だ。兄貴を起こしもせずに先に家出やがって。コンチクショー。
小さくぼやきながら長い緩い坂道を駆け上がる。ペダルがやけに重たかった。
駆け出した夏
必死こいて自転車をこいでいると、前方に同じ中学の制服の少女が見えた。
暑さでぼんやりした頭で「随分呑気に歩いてんな」と考えながらその少女の後姿を見つめる。不意に風が悪戯に少女の紺色のスカートを翻した。「あ、白」と目がそこに釘付けになった瞬間。その少女はスカートを素早く抑えて辺りを見渡す。そうして後ろを振り向いて、オレの姿に気付いたようだった。
こちらを振り向いた少女の顔を見て、オレはまた「あ」と思う。その少女の顔はよく見知った顔だった。
彼女はオレの隣ん家のウィンリィという名の女。それでもって幼なじみ。中学に入ってからはあまり話さなくなったけれども、近しい存在と言っても差し支えない、そんな間柄だった。
そんな彼女は疑念だとか少しの憎しみだとかそういう色を込めた瞳でオレを睨んできた。オレは少しも自分が悪くないことは知ってはいた。だが、ばつは悪かった。一応自転車の速度を緩めて彼女の横に並ぶ。
「……よう」
「おはよ」
「おう」
「見た?」
彼女は唐突に率直に簡潔にオレに問う。動揺したわけではないけれども、オレは思わずよろけた。けれども、よろけた後に素早くハンドルを横にきりジグザグ走行をしてみせた。そうして「なにを?」と澄ました顔をしながら聞き返す。彼女はそんなオレの顔を見て文句を言うわけではなくただ溜め息を一つ吐いてみせただけだった。それがなにを意味するかはよく分からなかったけれども、なんとか上手く誤魔化せたことに安心する。「我ながら完璧だ」だなんてペダルをこぎながら思ったりもした。
でも今は「流石オレだ」だなんて自分の演技力に酔っている場合でもなくて。それよりもオレには気になることがあったのだ。オレの記憶が正しければ――無論間違っているなど有り得ないのだが――目の前の彼女はオレの隣の家の住人であり、中学まで自転車でないと通学するのが少しきつい距離に住んでいる。そのため、彼女もまたオレと同様に自転車通学の筈なのだ。それなのに、だ。目の前の彼女は悠長に上り坂を登っている。これ如何に。疑問が口を衝いて出る。
「おまえ、チャリは?」
「今朝家出るときパンクしちゃって、置いてきたの」
彼女の返答に「そうか」とオレは納得した。納得しかけた。しかし、すぐさまそれは悠長に歩く理由にはならないことに気付く。自転車がないのにこんなにゆっくり歩いていては確実に遅刻するのではないか。そう彼女に言うと、彼女は「別にいいわよ」とその光に透けた金色を耳にかけながら言ってのける。
「増田先生、女の子には優しいし」
オレは彼女の言葉に眉を顰めざるを得なかった。より丁寧に言えば、オレを急がせる原因であり元凶である担任教師の顔を彼女の言葉により思い出して不快に感じ、眉を顰めざるを得なかったのだ。
増田というのはオレと彼女の担任であり、男卑女尊の精神とでもいうのかはよく分からんけれども、とりあえずは女好きで女贔屓の変態野郎だった。遅刻した場合において、女子に対しては遅刻しても「今後は気を付けるように」だとか軽い注意で済ませる。そのくせ野郎に対しては「教材の準備を手伝うように」だとか「資料室の掃除をするように」だとか命令をしてくるのだ。男女平等主義を唱えているオレとしてはヤツの考え方が気に食わなくて「男女差別ではないか」と何度か熱い議論を交わしたこともある。けれども、ヤツは国語教師ということもあり毎度毎度口の達者さを活かして上手くはぐらかしてきたのだった。男子生徒にとってはそんな風にいけ好かないヤツではあったが、女子生徒や保護者、同僚の教師(男性教師は除く)からのウケはよい。そうした事実が益々男子生徒の感情を煽るわけで。オレも他の生徒たちと他聞に漏れずヤツのことが大嫌いなわけだった。というか。遅刻を理由に顎で使われる人物といえば大抵オレなわけで。だから、ヤツのことなんかを「嫌いじゃない」と言う彼女が気に入らなかった。みすみす彼女に野郎と話す機会を与えてはいけない。与えたくない。
オレはペダルをこぐの足を止めた。彼女はオレがいきなり自転車を止めたことに対して不思議そうに首を傾げてみせる。そんな彼女に自転車の荷台を指差しながらオレは命令する。
「……乗れ」
「あたし遅れても平気だってば」
「乗れ」
「だって、ここ上り坂じゃない。登るのきついでしょ?」
「ちっとの距離だろうが。いいから乗れ」
彼女は少しごねたが、オレの顔を見ると諦めたように溜め息を一つ吐いた。それから渋々といった様子で荷台に跨がる。背中にいる彼女はその白い腕をそろそろとオレの身体に廻して掴まった。
オレを掴む彼女の身体はひどく柔らかくて。そして、檸檬の匂いがして。オレはなぜか酸っぱい気持ちを味わう。なんだ、こいつ。暫く話さない間に荷台に跨っている幼馴染がまったく違う存在に変わってしまったように思えた。まあ、そんなわけない。そんなことある筈がないけれども。
オレは気を取り直して再びペダルをこぎ始める。視線を下ろして走っていると、自然に地面の上の木々の影を踏むことになった。オレはそれを見ながらペダルをこぐ。すると、不意に背中から「あたしね」と言う彼女の声が響いた。オレは黙って彼女に耳を貸す。
「エドがあたしのこと避けてたと思ってたんだけど」
彼女の言葉に木漏れ日が揺れる。少しよろけたが、動揺したわけではない。したわけではないのだ。胸の内でそう繰り返しているオレの様子には少しも気付かない様子で彼女は続ける。
「あたし、なんか悪いことしたかなって」
「別になんもねえよ」
「じゃあ、なんで避けてたの?」
「……あんまうるさく言ってっと降ろすぞ」
「じゃあ、アルにエドがパンツ見てきたって言いつける」
再び木漏れ日が揺れる。少しよろけたけれども、動揺したわけではない。したわけではないのだけれども。「気付いていたのか」と思わず声に出してしまった。すると次の瞬間背中から「やっぱり見たんだ」と不機嫌そうな声が響く。そうして、彼女はオレの背中を問答無用と言うようにつねってきた。オレは思う。誘導尋問とは、こいつは末恐ろしいヤツだ、と。
オレは事実であり真実をありのままに話そうとした。「あれは事故だ、オレは悪くない」という事実であり真実の言葉を。弁解の言葉を。けれども背中にいる不機嫌そうな彼女がそれに納得するとは到底思えなくて。オレは観念して、彼女の問いに答える。
「別に避けてたとかじゃねえよ」
「嘘」
「ただ、あんま一緒に居ると冷やかすヤツいるだろが」
「え?」
「そうゆうの、お前気分よくないだろ」
オレはそれをすらすらと言ってのける。言いながら思った。彼女の顔を見ながらでなくてよかった、と。正直に言うと、彼女がそんなことを気にしてないことなんて知っていた。でも、だからといって言える筈もないだろう。本当はオレ自身が恥ずかしくて堪らなかっただなんて、そんなくだらないこと。そんな馬鹿なこと。まるで、そんなのは。お前を女だなんて意識してるみたいじゃないか。だから避けていただなんて。死んでも言えるか。
彼女はオレの言葉を聞いて、ふたつみっつ瞬きをした。まるで「そんなこと気にしたことありませんでした」とでも言うかのようなそんな感じで。そうして次の瞬間にはオレの仮説を裏付けるように彼女は無邪気な微笑みを浮かべて言ってみせるのだった。
「別にいいじゃないの、言わせとけば。本当に付き合ってるわけでもあるまいし」
予想通りの彼女のその言葉は。なぜか破壊力抜群だった。どこを破壊されたかなんて分からないけれども、なぜか酷く痛い。心臓が痛い。ああ、もうコンチクショー。
オレは今更ながら思い知る。こんな尋問を受けることになるならば、冷やかしを受けてもいいから避けずに一緒にいた方がマシだったということを。ああもう、最悪だ。後ろの彼女のせいで、異常にペダルが重かった。酷く重くなった気がした。
息をするのがつらくて、オレは無言で、夢中で、無心でペダルをこぐ。そうして、やっとあと少しで坂の頂上まで着くという時、徐に彼女は口を開いた。
「あんがとね、エド」
「は?」
「あたし、嫌われちゃったんじゃないかと思ってたから、話して安心した」
やけに可愛い声が背中から聞こえた気がして、オレは耳を疑う。なあ、もしかしてやっぱり。後ろに乗ってるのはさ、違う女なんだろう?オレは思わず後ろを振り向きかける。けれども、振り向こうとした反動で誤魔化しきれないくらいによろめいてしまってそれはかなわなかった。
次の瞬間「なにやってんのよ」と後ろから聞こえたその声は、可愛くなんかないいつも通りの彼女の声で。「ああ、なんだ。気のせいか」とオレは思い直す。そんなわけない。そんなことある筈がないのだ。彼女が可愛い、だなんて。
オレは狐につままれたようなわけの分からない悔しさをどうにかしたくて「うっせー」と一言だけ言葉を返す。でも、そんなんで悔しさが紛れるわけもなくて。「暑い熱いあつい」なんて言葉を胸の内でうわ言のように繰り返しながら、ペダルに悔しさを全部ぶつけた。
次の瞬間、ぐんと青い空が近付いた。
そこは青空がやけに近い坂の頂上で。オレはなぜかほんの少しの達成感を覚えた。喜びに浸って思わずペダルをこぐ足を休める。
「あと5分だよ」
彼女が焦った声でオレのシャツを引っ張ってきたために、我に返った。そうだ、余韻に浸ってる暇なんかない。そんな時間ない。
額に張り付いた汗を右手で拭って、それからその手でハンドルをしっかりと握り直した。
「しっかり掴まってろ」
彼女にそう告げると、彼女は返事代わりに俺の身体にその細い腕に力を込める。そうしてしっかりとつかまった。空いていた隙間が、距離がゼロになったのを感じながらオレは改めて思う。
まったく。今日ははなにもかもが最悪な朝だ。まだ初夏だというのに朝から高い気温も、汗で身体に張り付く髪も、ちっとも役に立たない追い風も、遅刻そうな時刻も、背中に乗客がいるという事実も。そしてなによりも。なぜか高鳴る鼓動が。まったく、心臓でも悪くしてるんだろうか、オレは。本当に最悪だ。
背中に彼女の温度を感じながら、オレは欅並木の中でそいつを思い切り蹴り飛ばした。
風は追い風。ペダルがやけに軽い。
オレは、全速力で下り坂を駆け出す。ブレーキなんて要らない。必要ない。
青空が、入道雲がそれを告げる。
さあ、新しい季節の始まりだ。
***
青春っぽさを意識してみたつもりです。
中学校の設定。
でもって、もちろんふたりは遅刻しました。という設定です^^笑

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